靖国とは何か?

  靖国神社は,戊辰戦争(明治維新)の明治政府軍の戦死者を祭るために,1869年に東京招魂社として明治政府によって創立された。「招魂社」は,幕末に倒幕側の死者のみを手厚く弔祭した各地の招魂墳墓,招魂場に由来する。その死をたたえ,反対派の死者を敵として追及することを特徴としている。これによって自派の活動家たちを死に赴かせたのである。
 1868年5月、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府から二つの布告が出ている。そのひとつは「癸丑(嘉永6年、1853年)以来唱義精忠天下ニ魁シテ国事に弊レ候諸子及艸莽有志ノ輩」の霊魂を合祀するものであり、今ひとつは伏見戦争以来の戦死者の霊魂を祭祀するため一社を建立する(京都東山に京都霊山護国神社が設けられる)ものである。
 これについて、靖国神社のHPで小堀桂一郎氏(明星大学教授)は以下のように解説している。(「_」内該当部分)また、「殉難者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士達であり、その志士たちの霊魂を「合祀」するという発想がここで既に示されています。後に靖國神社の御祭神は「嘉永六年以降の国事殉難者」と定められたのは、この文書によるものと言ってよい。
 さらに、この布告は合祀の対象を「なほこれより後も『王事(おうじ)』に身を捧げて斃れた者達」の霊と規定しています。合祀されるのは、今度の兵乱に斃れた者達だけではない、今後も皇室のため、すなわち国家のために身を捧げた者である、ということが明示されている


 日本がアジアへの侵略と戦争を展開していく中で,東京招魂社は靖国神社と改称された(1879年)。一般の神社は内務省管理だったのに対し,靖国神社は,陸・海軍が管理する軍の神社だった。日本は,伊勢神宮・靖国神社から地方の小さな神社にいたるまで国家の管理下に置き,天皇の祖先神だと称する天照大神(あまてらすおおかみ)を最高神とし,天皇を「現人神(あらひとがみ)」として崇拝させた。日本の戦争は,天皇の意思により開始され,「現人神」による「聖戦」だとされたのである。
 これに関しても小堀氏は同HP上で戦火に斃れた兵士の霊を慰めるために慰霊の祭を挙行するということは、いかなる国の軍隊にもあり得るきわめて自然な発想なのですが、靖國神社の場合は、陣中の一時的な招魂祭にとどまることなく、王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社(やしろ)を建立しようと考えた点に特徴があると、アジア・太平洋戦争までの全体主義的な思想をもつ天皇主権の政治制度の中で靖国神社が果たした重大な戦争責任について何の反省も無く述べているのである。

 伊勢神宮と靖国神社を頂点に、本来は地域住民の素朴な民俗的信仰の場である全国の神社を利用して,出征兵士の壮行,戦勝と兵士の武運長久の祈願,日本軍の勝利の祝勝行事,戦死者の慰霊などが行われ、労働者民衆の戦争動員の重要な場として悪用された。仏教やキリスト教などの信者も例外なく参加を強制され,従わないものには徹底的な弾圧が加えられた。

 靖国神社は,日本が行った戦争の戦死者を「神」として祭り,慰霊し,顕彰することを目的としている。そして靖国神社の「神」になるただひとつの条件は,天皇のために戦死することだった。特に15年戦争に突入してからは,毎年春秋に,天皇が大元帥の軍服着用で「神拝」を行った。
 そして「死んで靖国神社で会おう」などという言葉に見られるように,戦死を厭(いと)わないで,むしろ国のため,天皇のために死ぬことこそが皇軍兵士の名誉だとして,戦意を高揚させる,日本の戦争遂行に不可欠な施設となっていったのである。

 戦後も靖国神社は,政教分離原則により「国及びその機関は,いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定した戦後憲法のもとでも,一宗教法人の神社として延命し,戦前と寸分違わぬ形とイデオロギーを保持したままで存続している。
 現に靖国神社には2,466,364柱(2001年10月17日現在)が「英霊」「軍神」として祭られているのである。
 またA級戦犯として処刑された東条英機(日米開戦時の首相)や板垣征四郎(「満州国」デッチあげの首謀者),松井石根(南京大虐殺の最高司令官)ら14人が「昭和殉難者」として合祀(ごうし)されている。
                                        文責:T.M.(2002年5月16日)
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